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トップ >> ティーダな出会い >> 村井優紀さん [沖縄アクターズスクール・エグゼクティブプロデューサー]

ティーダな出会い 第12回 - 村井優紀さん (前編)
[沖縄アクターズスクール・エグゼクティブプロデューサー]


『 沖縄の未来創り 』私たちは、地元はもちろん全国から集まった子ども達の才能の芽を引き出し、人間力を育んでいます。

5年間で、沖縄にエンターテイメント産業を発展させ、世界に向けた「ミニ・ハリウッドスタイルのエンターテイメント・リゾート構想」を実現します!

お金をかければリゾートの箱は幾らでも出来ます。でも、人材はそうはいかない。まずは、エンターテイメントの能力を発揮できる人材を根気よく育成して行くのが先なんですよね。

それが既存の観光と融合し、沖縄の子ども達が若者に成長した時に働く場所になるなんて、素適でしょう!

浦添市の皆さんへご紹介します。

毎週土曜日の朝、QABで放送されるドラマ「ライブシティーLive City」。

ストーリーは、L.A.出身の女性プロデューサークリスティンが、沖縄で若いダンサーたちと出会います。彼女の感性と若者達の夢に火がつき、次第に青年達が世界的に活躍するプロフェッショナルに育っていく・・・というサクセスストーリーです。

このドラマの原作・脚本・演出・ナレーション・BGM 選曲・さらに登場人物であるクリスティンを演じているのが村井優紀さんです。

びっくりするのが、出演者はもちろん、カメラ、音声、照明、ロケハン、編集、制作デスク、衣装、ヘアメイクまで制作に関わるすべて10代から20代の「沖縄アクターズスクール」の生徒たちがになっているのです。

どうしてテレビドラマが素人の子供たちに制作できたのでしょうか。

醒めている、しらけて無気力であるといわれている現代の若者たちが、なぜにこんなに熱く一生懸命になれるのでしょうか?

ハリウッドのプロデューサークリスティンという登場人物と重なる、華やかな村井さんとはどのような女性なのでしょう?

みなさんが村井さんにお聞きになりたかっただろう質問に答えてくださった3時間あまりのロングインタビューを公開します。

行く末が全然見えないようなグレーな靄に包まれている今年、村井さんの話はきっとあなたの勇気と元気の元になるはずです。

【前編】
シャイなアメリカ人村井優紀が泣いて笑って一生懸命自己表現。
ドリプラの校長になる!

〜 必ずどんな人にも才能がある、 見えなかった才能が引き出されてプロデューサ−に 〜

待ち合わせの宜野湾トロピカルビーチに、村井さんは颯爽と現れました。
東京生まれ。父の転勤で4歳のときロサンゼルスに住むことになります。

バイリンガルを生かして将来の夢は通訳

Q.どんな子供時代だったのですか。

父はビジネスマンで母は専業主婦。弟二人というごく普通の家庭でした。

父の転勤でロスに来ましたが、たまたま家の近くの公立小学校に行くことになりました。その小学校はパフォーミングアーツに力をいれていました。今、私が生徒たちに言う多くのことは、小学校で先生に言われたことだなと思い出しています。もしこの小学校に行っていなかったら、あるいはこの仕事をしていなかったかもしれませんね。

中学校、高校時代はただスポーツをして、友達と遊んでいるだけ。

ロスは一年中暖かで雨が少なくて、スポーツが盛んなのです。子供のときからずっと私はテニスをしていて、夏になると毎日のようにトーナメントに出ていました。

とてもシャイな学生でした。グループの中で一番言葉数が少なかったり、教室でも自分の意見をほとんど言わなかったのです。 大学では政治学を専攻。好きだったからではなく、それが一番社会に出てから使えるのではないか、一番会社で雇ってもらえるのではないかと選んだだけでした。

別に好きな学問でもないから先が見えない。進路を変えて法律を勉強して弁護士を目指そうかと途中で考えたこともありました。両親がバイリンガルになるよう教育してくれていたので、通訳にでもなろうか。どうせなら国連通訳くらいのレベルで仕事はしたいなとも考えていました。全然、決まった目標なんてなかったのです。

ただ、ここロスは私の居場所ではないとは思っていました。いつかロサンゼルスから飛び出したかったのです

アメリカでも浮いた学生
日本でも変な留学生

大学3年生のときに1年間日本に留学しました。京都です。四季の移り変わりが美しかったし、日本の風習もびっくりするほど面白いものでした。でも同年代の大学生には交われず浮いていて、結局外国人留学生と一緒にいました。

今でもですが、根本的に私はアメリカンだと思います。でも血は日本人。アメリカだとシャイだったりおとなしい子なのですね。ところが日本にいると、やはりアメリカ人だから、うるさかったり派手だったり。つまりどっちにいても違和感がありました。

大学を卒業して、テレビ局でインターンをしたり、新聞社の仕事に興味を持ってみたり。
何がしたいか定まらなかったのです。

一年ほど沖縄で遊びに来たのがアクターズスクールとの出会い

Q.どうして沖縄に来られたのですか。第一印象は?

私の親は日本からのお客様を自宅に泊めたりロスを案内したり、本当にいつもお客様(ゲスト)のいる家でした。その一人がたまたま『ドリームプラネット・インターナショナルスクール』のスタッフでした。まだ開校前で、ロスにリサーチに来ていたのです。

インストラクター兼通訳をするバイリンガルのスタッフが必要だと私にオファーがあり、一年か二年日本で遊んでもいいなと沖縄に来たのが24歳でした。

第一印象は『ロスみたい!』。車社会だし気候も似ています。これなら住めると思いました。もし、これが他の土地だったら、だめだったかもしれません。

当時『ドリームプラネット・インターナショナルスクール』はムーンビーチにありました。私は英語のインストラクターとして来たのですが、教えた経験もないですから、最初は全然意味のない授業しかしていませんでした。生徒は小学生から20歳まで、約150人程いました。

Q.ドリームプラネット・インターナショナルスクールとは?

マキノ正幸が作った学校です。
沖縄アクターズスクールは、安室奈美恵など輩出し日本の芸能界に『沖縄ブーム』を起こしました。でも「スター」は、ルックスや感性で一時的に騒がれても人気が下がるとブームにおいていかれてしまう。突然『プロの世界』にほうりこまれるために、人気が落ちた途端行き場をなくしてしまうのです。なぜなら『人間力』『コミュニケーション力』を鍛えられていなから。自信喪失をした子供たちは、その後の人生に大変な影響を及ぼしてしまいました。

そういう沖縄アクターズスクール出身のタレントたちに危機感を覚えたマキノは、『芸能学校』ではなく「才能を育てる」学校として『ドリームプラネット・インターナショナルスクール』を1999年に設立していました。

とはいっても、沖縄に来た当初、私はマキノを知りませんでした。

イントラから秘書に抜擢される

ある日、マキノが学校に来たとき、みんな『マキノが来た!』って騒ぐのです。誰だろう?と思っている私に、マキノは通訳をさせました。これからこの学校はこうするのだ、ああするのだというマキノのビジョンを外国人インストラクターに40分ほど、熱く語りました。通訳するうちに私にもマキノの熱が伝わり、私も熱っぽく話をするようになった。こんな面白い話の通訳は初めてでした。いくらでも通訳したいと思わせるような話だったのです。

終わったときマキノは私に握手を求めてきて、「君は英語を教えるインストラクターにはもったいない、もっと才能を育てるべきだ」。

ここからの後、私の人生は目が回るくらい変化していくのです。

自分の言葉で語れる子供たちを育てる

とりあえずマキノの仕事を学ぶため、「秘書」というポジションにつきましたが、何しろ向かない。トレーニングもされていないし、日本語も下手、管理もできない。マキノを困らせてばかりでした。数ヶ月後、ドリプラのある状況のお手伝いをすることで「秘書」という立場からは離れました。その状況とは、マキノが決心したドリームプラネットのスクール変革でした。

この時期、マキノは毎日何時間も生徒たちに講話をし、私はそれを英語でインストラクターたちに伝えました。

その頃、ドリームプラネットの生徒たちは無気力でした。様々な過去をもつ子供たちがいました。大人のウソに傷ついていた子達も多かった。そんな子供たちにマキノは「ともかく俺を信じろ」と語り掛けました。それを私はインストラクターに通訳をしていた。通訳といっても、マキノと同じ感情を出して、泣きながら笑いながら、机を叩きながら熱く語りました。

ある日、生徒から「優紀さんのレッスンを受けてみたい」とマキノに手紙があり、私は通訳からインストラクターにまた戻ることになります。

この時期、学校は本当に大変な時期でした。ある朝、人気者だったインストラクターが突然辞め、生徒たちが泣いているのです。思いついて、子供たちに紙を配り『人間の強さって何か書いてみて』。みんなが書いたものを集めて、読み上げました。

これが後に『グラブ・バスケット』という授業です。偶然ついた名前ですが、書いた紙を入れる箱がなくて、たまたま使ったのがバスケットだったからそう呼んでいます。

それ以来、私の授業では毎日グラブをしました。

生徒たちは、自分を表現することができないでいたから、毎日一緒にいるのにお互いが何を考えているかわからなかった。毎日テーマを決めて一言ずつでも書かせて、それを教室で読み上げて、その言葉にみんなが感動して、泣いて笑って、というのを毎日続けたのです。

テーマはいろいろでした。朝のミーティングでマキノが話したことを生徒たちにより考え、理解してもらうため『グラブ』のテーマにすることもあったし、「お母さん」「お父さん」がテーマのこともありました。「信頼ってなんだと思う?」「大人って?」ということも。 彼らが書くのに1時間、私が読むのに1時間半ということもあります。

最初、「わかりません」「なにもありません」が多かった子供たちの答えが、次第に長い文章になってきました。生徒たちのひとりひとりに声を、全員が聞く時間。そうすることで物を書くこと、考えること、発想力などが子供たちに備わり、自分を表現することを身につけることができてきたのです。

この経験をした子供たちが、今ドラマ『Live City』の中心スタッフに育ってくれています。人の心がわかる編集や裏方ができる子供たちです。

そんな授業を4年くらい続けたとき、私はドリームプラネットの校長に命じられたのです。でも、校長なんて、また私に向かない仕事だったのですよね。

この後がまた大変でした。

2009年1月25日 沖縄アクターズスクール ミュージカル公演!「DREAMWAY」

前回の公演が大成功に終わった沖縄アクターズスクールがまたまた公演を行ないます。

村井さんのプロデュース作品を、生で見ることができる絶好のチャンスです!

「ライオンキング」「マンマミーヤ」「コーラスライン」「アニー」「メリーポピンズ」「ウエストサイドストーリー」・・・ ブロードウェイの名作、名曲が一度に楽しめます!

【日時】1月25日(日)  17:00会場  18:00開演
【場所】かでな文化センター大ホール
【チケット】当日券:2,500円  (前売り券は2,000円)
全席指定席

※チケットのご予約は沖縄アクターズスクール事務局(電話098-898-5690)まで

Live City【DREAMWAY】チケットプレゼント
先着50組100名様をご招待! 詳しくは公式HPで
沖縄アクターズスクールへ

★ 村井優紀 プロフィール

(株)沖縄アクターズスクール

取締役 / エグゼクティブ・プロデューサー

「LIVE CITY」

原作/脚本/演出/選曲/ナレーション
/字幕/ ”KRISTIN”役

1976年東京生まれ。4歳よりロサンゼルスで過ごす。カリフォルニア大学政治学部卒業。
2001年に来沖し、マキノ正幸の「ドリームプラネットインターナショナルスクール」のインストラクターとなる。2005年には校長に就任。傍らでブロードウェイ・スタイルのミュージカルを書き、沖縄アクターズスクールとドリームプラネットの生徒達と共に、沖縄の大劇場を満席にし、大変な話題を呼ぶ。マキノ氏の肝いりでプロデューサーとしての才能を発揮し、原作/脚本/演出の作品を生徒たちとの自主制作でテレビ番組を制作。QABで毎週放送し,現在の「LIVE CITY」となる。マキノ氏が能力を見出したプロデューサー村井優紀氏は、生徒の制作スタッフを率い2007年からテレビドラマを作り続け、2年間でこれまで60作品余りものドラマをオンエアーして来た実績を持つ。そして、今年は劇場ミュージカルを数多くプロデュースする予定。

沖縄アクターズスクールHP >>
Live City(ライブシティー)HP>>

株式会社 沖縄アクターズスクール

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  • 「沖縄県が支援を表明」
    平成21年1月23日 経済産業省の「2008年度地域資源活用型新規産業創造事業」に内定したと発表。
    詳しくは琉球新報記事をご覧ください。

掲載日:2009/1/23

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